第2話 高校時代~渡米
<高校入学>
私の高校の入学先はいとも簡単に決まってしまいました。
私を勧誘に訪れた高校の校長先生が、偶然にも
私のおやじの高校時代の同級生だったのです。
その校長先生とおやじは何十年ぶりかの再会でお互いに盛り上がり
私の意思を確認することなく、おやじの
「ほんじゃ~きまりじゃの~~。」
の一言で決まってしまいました。なんともアンチョコに決まってしまった高校。
ゴルフ部の特待生ということで、とりあえずはゴルフができるのは
まちがいありませんでしたが・・・。こうして高校生活は始まりました。
私のゴルフ生活のパターンはこれまでとそれほど変わりませんでした。
ゴルフ部の活動は適当にやって、ほとんどひとりで近くの練習場での球打ちの
毎日です。この頃から体作りに興味が沸いて、夜は9時から11時まで
筋トレをするようになりました。育ち盛りのこの時期のトレーニングは筋肉をたくさん
私の体に授けてくれました。
本当にトレーニングとゴルフ漬けの毎日です。
もちろん、家の酒屋の手伝いはちゃんとしてましたよ。ゴルフ部としての活動では、高校2年の時に全国大会へ出場しました。
個人戦とチーム戦がありましたが、私はその時70台でラウンドして
スコアー的には個人1位でしたが、なんでかスコアー誤記をしてしまい失格。
個人はもちろん、団体戦も一番スコアーが良かった私が抜けることになり、
一番悪かった100叩きのスコアーがカウントされ、団体戦もさっぱりでした。さらに、高校3年の時は大会直前に通りががりの人とケンカをして
右手でパンチしたのがいけませんでした。
右手のこぶしの骨を折って、試合には出場できず・・・。
涙、涙、涙・・・・。全くゴルフ部に貢献できませんでした。
ゴルフ部の古田先生、杵築先生、ごめんなさい。もちろん、高校のゴルフ部の試合以外にジュニアの試合にも出ました。
高校2年生の時に、日本ジュニアの高校の部で3位に入賞。
その資格で翌年、3年生の時に世界ジュニアに出場できました。
会場はアメリカのサンディエゴ。私にとってははじめての海外旅行です。
私ともう一人森口君と、スポーツニッポンの方と3人の旅でした。
アメリカってどんなところだろうとすごく好奇心いっぱい。
もちろん英語はまったくできませんでした。
でも、緊張とかビビッた感じは全くありませんでした。最初にアメリカに飛行機が着陸して記念すべきアメリカへの第一歩。
自分の足でアメリカの大地に足を下ろした時
なんだ、日本と一緒でちゃんと地面があるんだ・・・
と訳のわからんことを思っていたような気がします。はじめて外人とプレーした時も、緊張した記憶はありません。
もちろんアメリカ人で上手い選手もいましたが、案外下手な人も多くて
こんなもんか、って安心しました。試合は確か私は20位くらいでフィニッシュしたと思います。
成績はあまりよくなかったのですが、この試合ではアメリカ人以外の選手に
優秀外人選手賞というのが与えられますが(アメリカ人以外の選手の上位5名)
これをいただきました。<アメリカへの道>
このアメリカ遠征は、私にとって世界ジュニアに参加したということ以上に
これからのゴルフ人生の大きな転機となりました。高校2年生の時に、兄ちゃん(マッシー)の紹介で
川田太三さんと出会いました。
川田さんはJGAの方でアメリカのゴルフ事情に非常に詳しく、
ジュニアゴルフに対しても 力を尽くされている方です。
この出会いから、川田さんは私のメンターとなり
(私が勝手にそう思い込んでいます)、いろんな節目で
貴重なアドバイスをいただいています。ある時、川田さんと高校卒業後のことで話をしていたところ、
アメリカの大学でゴルフをするのもひとつの選択肢だよ、とお聞きしました。
このときはじめてアメリカの大学のゴルフ部でゴルフをするということが
頭にインプットされたのです。アメリカか・・。それも悪くないな・・・。
英語もできないくせに、新たな夢が膨らみ始めました。
それからまもなくして、おじさん(マッシーのお父さん)とも
大学の話をする機会が ありました。
そのときに、おじさんが言ってくれた言葉は、「泰信が日本の大学でゴルフを目いっぱい頑張ったとしても
昌弘の日本学生4連覇とタイ記録しかつくれんぞ。この昌弘の
記録は敗れんから、いっそのことアメリカへ行ったらどうじゃ。」「・・・・そうか。それもそうだな。
日本にいては兄ちゃんの上には絶対にいけないか・・・。」こんな会話も偶然あって、私もアメリカに行きたいという気持ちが
だんだんと固まり始めていました。
英語ができないことも考えずに・・・・。私の頭にアメリカの大学に行くという選択肢があったところへ
高校3年のときに世界ジュニアでアメリカに行くことになったので
私は同行していただいたスポーツニッポンの方に
アメリカの大学でゴルフがしたい希望があると話しました。
すると、この試合会場に来ていたアメリカの大学のコーチが数人
私に声をかけにきてくれたのです。アメリカのゴルフ部のコーチは自分の大学へ優秀な高校生たちを
リクルートするのが仕事なので必ずジュニアの試合には来ています。
(詳しくはこちらをお読みください→click!)その中で、オクラホマステート大学のマイク・ホルダーコーチが
声をかけてくださいました。 オクラホマステート大学のゴルフ部といえば
全米チャンピオンの最強チームです。
トントン拍子でこの大学へ入学する話が進んでいきました。
私はアメリカのことは全くわかりませんでしたので、
川田さんがいろいろと手助けしてくださいました。ところがです・・・
アメリカの大学に入学するのにTOEFLという英語の試験で、
確か500点だったかな・・・
とにかくある一定の点数を取る必要がありました。恐れていた事態です。
高校ではほとんど勉強していなかったので、
このハードルはかなり私には高いものでした。
いや、はっきり言って不可能です。ちゃんと勉強しておけばよかった・・・
後の祭りです。
とにもかくにも悩んでいる暇はなく英語の勉強を否応無しに開始しました。
これで合格点をとらないとアメリカの大学は遠のいてしまう。
それはいやだぁ~。なんとかして行きたい!それから英語の猛勉強の日々が続きました。
でも、なかなか思うように行きません。
たぶん、英検の2級程度のレベルがすぐに必要になっているのです。
やっぱり不可能に近い・・・。岩国米軍基地へ英語の勉強にも通いました。
それから数回TOEFLを受けましたが、なかなか合格点がとれません。
やばい。本当にやばい。お世話をしてくれていた川田さんもいいかげん私のことが心配になっていました。
きっとオクラホマステートのコーチからどうなってんだーって
急かされていたんだと思います。
その川田さん、とうとう待ちきれずに「このまま日本にいても英語はできないから、
とりあえずアメリカに行ってしまいなさい。
アメリカにいたらいやでも英語は覚えるだろう。
まあ、なんとかなるだろう。」と最後は行ったとこ勝負みたいな状況で渡米が決まりました。
私もそうだ、そうだ、とりあえず行けば何とかなるかもしれないと
半分やけくそ、でもどうしてもアメリカでゴルフがしたい思いで
アメリカのオクラホマに飛びました。