レックス倉本のBYTC GOLFに来ていただき有難うございます。
プロゴルファーレックス倉本(倉本泰信)ってどんな人?
って思う方もたくさんいらっしゃると思います。
アメリカからの逆輸入プロゴルファー第1号として
ご存知の方もひょっとしていらっしゃるかもしれません。
今ではすっかりベテランの域に達していますが・・・。
誰だかわからない人のサイトを見ていただくよりも、
少しでもレックス倉本の横顔をご紹介できればと思い
このREXものがたりを書いてみました。
けっして恐竜のおはなしではありません^^。
こんなプロゴルファーもいるんだなと心のどこかに
とどめていただけたら幸いです。
では、第1話から・・・。
(管理人)
第1話 誕生~中学生
<私は神の子??>
ある年の2月26日、広島県広島市のある酒屋の長男として
私がオギャ~と生まれました。私は姉が2人いますが、両親がどうしても男の子がほしいと
出雲大社にお参りに行ったとき、そこの神主様が、
倉本家に男の子をさずけましょう、とふいにおしゃられたそうで、
その数ヶ月後に私が誕生したそうです。そうなんです!私は神の子なんです!!
<夢のない幼少時代>
ふたりの姉とは少し年が離れているので、私が物心ついた頃には
ふたりの姉はすっかり現実的になっていました。ある年のクリスマス、私は
「サンタクロースはいるのかな?僕のところにも来てくれるかな?」
と2人の姉に聞いたところ、
「そんなんいるわけないでしょ!バカ!!我が家にはおらんのよ!!」
「・・・・・・・・・・(涙)」
無残にも私の夢は音を立てて崩れました。
夢の希望もない返事。厳しい現実の世界へいきなり引き込まれた
幼少時代を送りました。<小学校時代>
いたって普通のガキ時代を送っていました。
地元の学校へ通い、やっぱり男の子。野球が大好きで授業が終わると
毎日グランドでキャッチボールや野球をしていました。
足もかなり速くて、いつも校内では1位2位を争っていました。
勉強はあまり一生懸命しませんが、成績はいつも良かったです。家の庭には家庭用のゴルフ練習ネットが張ってありました。
おやじがゴルフをするので、ときどきそこでおやじの友人達が
ボールを打っていました。
私ははじめはまったく興味がなく、ボールを打つこともまったく
ありませんでしたが 11才のときだったか、
ある時急に私もボールを打ちたくなりました。
そして、その庭のネットでボールをちょくちょく打つようになりました。
この頃はとくにゴルフが楽しいともおもしろいとも思いませんでした。そんな私を見て、ゴルフが好きなおやじは嬉しくなったのか
ある日、私をゴルフ場に連れて行ってくれました。広島ゴルフ倶楽部鈴が峯コースです。
ここが私のゴルフの原点となりました。
<私のコースデビューは??>
ボールを打ち始めて1ヶ月ほどしかたっていないのに
私はおやじにコースに連れて行かれました。おやじは私にゴルフをするように強要はまったくしませんでしたが
どうやら、本当は私にゴルフをしてほしかったのでしょうか、
私がゴルフを始めるずいぶん以前から私のために3Wを作ってくれていたのです。そのマイクラブを1本だけ持ってはじめてのゴルフ場へ行きました。
おやじと私と、もうひとりおやじの友達のおじさん3人でいざスタート!私の記念すべきコースでのファーストショットは
マイクラブの3Wで、ナント、ナイスショット!!
谷を越えてまっすぐにフェアウエイど真ん中。私も気をよくして一目散にフェアウエイの真ん中にある
ボールに向かって走りました。 そして、セカンドショット。
やっぱりマイクラブの3Wでナイスショット!!ところが・・・
おやじの友達のおじさんが大声で怒鳴っています。
「それはオレのボールじゃ~!(怒!)何するんじゃ~!!!!」
「・・・・・・。」私はおじさんにごめんなさいをして、
私が誤球をしたボールのはるか先にあった
自分のボールを拾ってプレーをやめてしまいました。
すごい剣幕でおじさんが怒ったので
ゴルフどころではありませんでした。その後はつくしを採ったり、
広いフェアウエイを走ったりしながら
おやじにくっついていました。これが私のわずか2打のコースデビューでした。
<中学校時代>
中学校にはいって部活をなににしようかと考えていました。
やっぱり野球部かな・・・。
でも、私がゴルフをするとおやじが喜んだので、
それではとゴルフをすることになりました。ここから私のゴルフ漬け生活がはじまることになります。
家から電車で3駅のところに練習場がありました。
そこへ学校から帰ったらすぐにひとりで通う毎日が始まりました。
その頃は、子供がゴルフをしているなんていうのは少なくて
練習場でもおじさんたちの中にまじって、小さいガキが
ボールを黙々と打っている姿はちょっと変だったかもしれません。
毎日200球ほど打っていました。
このころはまったくの我流です。とにかくボールにクラブを
あてることしか考えていませんでした。私はゴルフがそれほど好きだ!という感じはなかったのですが
とにかく、なにかに打ち込みたい思いが強く
その対象がたまたまゴルフになってしまいました。
女にも博打にもテレビにもアイドルにも興味がありませんでした。中学2年の時に、広島ゴルフ倶楽部鈴が峯コースのメンバーになりました。
おやじが、ゴルフを始めた私をすごく喜んでこんな環境を与えてくれました。
それからは、毎週末このゴルフ場に通うようになりました。
土曜日は学校が終わると、電車を乗り継ぎ1時間かけてコースに通いました。
日曜日は午前中キャディをして、午後からコースで練習しました。
もちろん、平日はいつもの練習場で球打ちです。コースのメンバーになって、はじめてゴルフを教えてくれる人と出会いました。
そのゴルフ場の松本仁志プロです。現在は同倶楽部の支配人です。松本プロからは
・大振りするな ・力を入れるな ・構えたらすぐ打て
この3つを口うるさく言われました。
今思えば、普通ジュニアには体を目いっぱい使ったスイングをさせるのですが
松本プロは違っていましたね。そのおかげでか、77というスコアーをそんなに時間もかからず
出した記憶があります。
私はこのアップダウンの激しいゴルフ場と松本プロから
ゴルフの基礎となる部分を体得しました。
まさに私のゴルフの原点です。その後の中学時代は、とくかくジュニアのゴルフ競技やクラブ競技にむけての
練習に没頭しました。中学3年の時には全日本ジュニアの中学の部で2位、
クラブチャンピオンシップでは決勝で負けたりとこの頃のゴルフの上達の速度は
すさまじかったように思います。同じ年の友達と遊ぶよりもゴルフのうまいおじさんたちと
一緒にいるほうがよっぽど楽しかったのです。変な子供でした。私の従兄弟は有名な偉大なプロゴルファー倉本昌弘(マッシー)です。
普段は兄ちゃんと呼んでいますが、私がゴルフクラブを握り始めた頃には
すでに日本アマを勝ったり、学生ゴルファーの頂点を極める日本学生4連覇を
したりと、ノリノリのゴルファーでした。兄ちゃんは東京に出て行っていたので
それほど顔を合わせることはありませんでした。そんな兄ちゃんを見ていて、私は「僕も日本アマや日本学生で勝つのは当然だ」
と何の疑いもなくその頃は思っていました。なぜかわからないけど
ナチュラルにそう思い込んでいました。